欅坂46 8thシングル『黒い羊』の「全部僕のせいだ」に至る「僕」の物語と「君」の不在について【コラム】

1月21日に放送された、SCHOOL OF LOCK!(TOKYO FM)にて、欅坂46 8thシングル表題曲「黒い羊」が解禁された。

ここでは、主に歌詞に注目して記事を書いていきたい。一応書いておくと、以下の文中にある僕(括弧なし)は執筆者のことであり、「僕」(括弧あり)とは欅坂46の楽曲に登場する一人称のことである。また、欅坂46の全楽曲に注目したわけではなく、取り上げたのは歴代のシングル表題曲と「エキセントリック」「避雷針」「もう森へ帰ろうか?」の3曲である。

以前のコラム↑にも書いたが僕は元々文学畑の人だ。小説を読むのも好きだし、本を読むのも好きだし、なんなら興味のある分野の活字媒体にはとりあえず目を通すと言っても過言ではない。だが、そういう読書好きの人たちの中には2種類の人種が存在する。ひとつは本文を丁寧に読んでいく人たちだ。そういう人たちが小説を読むとき、登場人物たちの情報はすべて頭にインプットされるし、作中の時間経過も詳細に整理されている。折にふれて本文の一節を紹介してくれるような人たちでもある。

もうひとつは本文を目にはしているが、行間ばかりを追いかけている人たちだ。例えば「A」という台詞があったとき、その台詞の詳細な文章についてはすぐに忘れてしまうが、「この人はどうしてAみたいなことを言ったのだろう」ということをひたすら考えるようなところがある。「なにが書いてあるのか」ではなく「なにが書かれていないのか」に注目しがちな人たちであるとも言えるだろう。

僕をそのどちらかのタイプにカテゴライズしようとするならば、明らかに後者である。そんな僕が「黒い羊」を聴いたとき「僕」の意志の強さは強く感じたが、同時に引っかかったのは「全部僕のせいだ」という平手友梨奈の悲しげなソロパートだった。そして書き起こされた歌詞を読んだときに気が付いたのは、多数の「僕」に対して象徴的とも言える「君」の不在だった。

「サイレントマジョリティー」に存在した「君」と「僕ら」

欅坂46のシングル表題曲の歌詞に「僕」という文字が初登場したのは、欅坂46のデビューシングルとなった「サイレントマジョリティー」だった。しかし「アイドルらしからぬ」という形容詞が付きまとったこの曲において、実は「僕」という歌詞は存在しない。「僕らは何のために生まれたのか?」というように「僕ら」という言葉が使われている。

普通に考えればこの「僕ら」とは欅坂46のことであり、矛盾性を孕んだ楽曲でデビューすることになった彼女たちを示している。「僕ら」よりも先に歌詞に登場する「君」とは、「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」「君は君らしくやりたいことをやるだけさ」という歌詞に代表されるように、視聴者へのエールに過ぎなかった。「さあ未来は君たちのためにある」という歌詞にも表れているように、「君」(「君たち」)という言葉は「サイレントマジョリティー」のメッセージの直接性を強調するために使用されたと言えるだろう。その言葉の意味が変化するのは2ndシングル表題曲の「世界には愛しかない」においてだった。

「世界には愛しかない」において初登場した「僕」と「愛」

ポエトリーリーディングが話題になったこの曲において、欅坂46の歌詞にたびたび登場する「僕」と「愛」という言葉が(表題曲の中には)初登場した。秋元康が「女子高の演劇部」をイメージしたこともあってか、タイトルにも含まれた「愛」という言葉はストーリー的な要素を獲得するに至った。そのストーリーを表現するために「僕」と「君」という言葉の意味合いは「サイレントマジョリティー」から変更されている。

「僕」は独立した主人公となり、欅坂46を直接表現する言葉ではなくなった。同様に「君」が示す言葉の意味も「視聴者」ではなく、「僕」の側にあって「僕」から「愛」の感情を向けられる存在に変化している。「僕」は大人に対して反抗的であるが、それは「今すぐ僕は君を探しに行こう 誰に反対されても(心の向きは変えられない) それが 僕の アイデンティティー」「僕は信じてる。世界には愛しかないんだ。」という歌詞の通り「君」のためのものである。

「僕ら」ではなく「二人」

「愛」がタイトルに採用された2ndシングルに続いて、3rdシングルに採用されたのは「二人」という言葉だった。これはもちろん「僕」と「君」を表している。歌詞によれば「自分の半径1メートル見えないバリア張った別世界」に閉じこもっていた「僕」を「君」が「連れ出してくれたんだ」という。その結果、二人は「春夏で恋をして」いくことになるが、「秋冬で去って行く」ことになってしまった。出会いと別れを描いたラブソングでもあるこの曲において、「僕」の主体性を感じる「僕ら」という言葉は使われておらず、客観的な「二人」という言葉の使用が徹底されている。これは「二人」の関係が対等なものであり、一方的な感情によるものではないことを示している。

別離からの「僕は嫌だ」と「I am eccentric 変わり者でいい」

別れを描いた3rdシングルののち、4thシングル「不協和音」では歌詞から「愛」という言葉が消えた。同時に「僕ら」という言葉も「二人」ということ言葉も使われていない。ここで歌われたのは「僕はyes と言わない」「僕は嫌だ」という、「僕」による強い拒否と抵抗感だった。「君」という言葉は使われているが「君はyes と言うのか」という非難めいた問いかけであり、意味合いは「サイレントマジョリティー」的である。ストーリーに登場する「君」へ対するものであるかもしれないが、その要素は薄まり、前述のメッセージ性を強調する役割が見えるようになってきた。

その「不協和音」の強烈な抵抗の結果、「エキセントリック」の「僕」は少し疲れているような印象を受ける。「僕は嫌だ」というトーンは低調なものになり、「だから僕は一人で心閉ざして交わらないんだ」「普通なんかごめんだ 僕は僕でいさせてくれ」と「君」に出会う前の「「自分の半径1メートル見えないバリア張った別世界」に閉じこもっていた「僕」」に逆戻りしている。

「風に吹かれても」で垣間見られた回復と「避雷針」の抵抗

ただ「僕」の失意も時間が慰めてくれたのか、「風に吹かれても」では「愛」が復活。「愛だって 移りゆくものでしょ?」というように「僕」は「君」との関係を構築することに成功している。この「君」が、「二人セゾン」で別れた「君」なのかはわからないが、「僕たちは空中を舞っていよう」というように、関係を示す言葉は客観的な「二人」から主体的な「僕たち」にトーンダウンしている。「未来の君の気持ちは 予想がつかなかった なぜ奇跡的なチャンスを 見逃してしまうんだろう? 時が過ぎて振り返ったら ため息ばかりさ」という歌詞からこの関係は長続きしなかったのかもしれない。

そのような「僕たち」の関係への「僕」の不満は「避雷針」で爆発する。「心を閉ざして僕をいつまで待たせるんだ?君っていつも何か言いかけて 結局 言葉飲み込むよ」「僕は何に期待するの?」「君は感動のない眼差しで 僕を見ていた」など「君」を非難するような言葉も並ぶ。しかし「僕」は「二人セゾン」で別れを経験し、「不協和音」で強烈な抵抗を見せたことからなにかを学んだのかもしれない。相反する、まさに「アンビバレント」な感情を見せている。

「そんな不器用さを守るには 僕がその盾になるしかない」「世の中の常識に傷つくのなら 君の代わりに僕が炎上してやるさ」「どんな理不尽だって許容できるさ 気配を消して支える」「重箱の隅を突かれたって 僕が相手になってやる」「平凡な日々を今約束しよう ここにあるのは愛の避雷針」とあるように「僕」は「君」を守ろうとしている。この姿は「世界には愛しかない」で「君」のために大人に反抗した「僕」の姿に重なる。

限界と破局を迎えつつある「僕」と「君」の関係

「世の中」に疲弊した「僕たち」は「もう森へ帰ろうか?街には何もなかった」と世間から離れることを考え始める。「喧騒の中で愛 語り合っても鉄やコンクリートは温もりを伝えやしない」というように都会や街中に拒否感を示している。「僕たちが信じてた世界はフェイクだった」とあるように、ここにある抵抗感や拒否感は「僕は嫌だ」と声高に叫んでいた「僕」のそれとは一線を画している。「僕たちの行き先はどこにも見つからない」という歌詞では、「風に吹かれても」で暗示されていた、破局の時間が近づいていることがわかる。

帰還した「僕」、そして「君」の不在

その後、「ガラスを割れ!」では「俺」、「アンビバレント」では「私」、「I’m out」では「僕たち」と、純粋な「僕」は不在だったが、「黒い羊」では「僕」が帰ってきている。しかし「君」の存在はない。「黒い羊」は喧騒から始まり喧騒に終わるように、「もう森へ帰ろうか?」での「ユートピア」に向かうという諦めに似た提案は実行されなかったか、あるいは失敗に終わったのか、「僕」は一人で街に存在している。「スマホには愛のない過去だけが残ってる」というように、愛のある過去は消えて(消して)しまったようだ。

「僕」は、また「不協和音」「エキセントリック」のときのように孤立してしまっている。だが、「そうだ僕だけがいなくなればいいんだ」「目配せしてる仲間には僕は厄介者でしかない」「人間関係の答え合わせなんか僕にはできないし」「反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ」と、疲れた「僕」は「不協和音」のときのように強烈なアウトプットはできておらず、「エキセントリック」のような内的な抵抗に留まっている。「それなら僕はいつだって それでも僕はいつだって ここで悪目立ちしていよう」と考える「僕」は「キレイな川に魚はいないと したり顔して誰かは言うけど そんな汚い川なら 僕は絶対泳ぎたくはない」と考える「僕」と同一の存在だろう。

そんな「僕」は「全部僕のせいだ」と悲しげに自分のことを責めている。楽曲全体の中で異色とも言える部分であり、ここに引っかかった人も多いだろう。「僕」のストーリーを追いかけていくと、「僕」がなにかを主張しているときには「君」の存在が大きく影響していることもわかる。そんな「僕」が自分を責めているとすれば、やはり「君」に関係することだろう。「君」と離れることになってしまった、しかも本意ではなく抵抗することも充分にはできなかったという後悔の感情が含まれているのかもしれない。

2018年に欅坂46から3人のメンバーが卒業することになったときに、小林由依からは「どこで間違ってしまったんだろう?」というような発信がなされた。メンバーにはそれぞれの考えがあるだろうし、卒業は特段誰のせいということもないだろうが、「自分がなにか行動を起こしていれば…」というような考えが、後悔の念に転換するということもあるだろう。「全部僕のせいだ」という悲しげなソロパートにはその思いも含まれているのだろうか。

「僕」は二度の別離を経験してそれでも街に留まっている。「放課後の教室」とあるように「僕」は学生(生徒)なのかもしれない。街中の雑踏のような喧騒から始まり喧騒で終わるということは、僕が登校するシーンから曲が始まり、下校するシーンで終わるのかもしれない。あるいは「僕」は「自分の半径1メートル見えないバリア張った別世界」にまた閉じこもっていたのかもしれない。レコメン!で菅井友香が「ミュージックビデオとか観ていただければ。これから解禁されると思うのでわかるんですけど、色んな物語がその中に入っているので是非観て欲しいなと思います」と語ったように、MVでその世界観が強化されることになるだろう。そのとき「僕」は、どのような場面で、どのような相手に、どのように抵抗しているのか、注目してみたいと思う。

コラムについて

このコラムは文学で言えばテクスト論的に書くことになってしまった。そのため「秋元康」「欅坂46のメンバー」「センター平手友梨奈」という存在はかなり軽視というか無視されることになってしまった。実際は秋元康は欅坂46の状態を見て歌詞を書いていると思うので、その視点を相当失ったことは問題であるだろう。

また、「僕」という言葉の登場する他の楽曲について触れていないのも反省点だ。シングル表題曲でも「ガラスを割れ!」と「アンビバレント」については割愛し、「I’m out」では「僕たち」という歌詞があるのにも関わらず無視した。これは流れを重視したためだが、いずれこの点もカバーできるコラムが書けたらなと思う。

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